あなたの中には、どんな『=』がありますか?

最近、自分の心と向き合う中で、ひとつ大きなことに気づいた。

私はずっと、
「失敗すること」や「間違えること」を怖がっていたのかもしれない。

でも、今まで自分では、そこまで強くそう思っているとは気づいていなかった。

だって頭ではずっと、

失敗したっていい。
間違えたら直せばいい。

そう思っていたから。

自分なりにいろんなことを学んできたし、
自分の怖さや思い込みについても、ずいぶん向き合ってきたつもりだった。

だからまさか、
「失敗することへの恐れ」が、自分の人生をこんなにも狭くしていたなんて思っていなかった。

でも最近、ある人と話している中で気づいた。

私の中ではいつの間にか、

失敗する=責められる

になっていたのかもしれない。

失敗したら責められる。
間違えたら責められる。

そしてその先には、

嫌われるかもしれない。
バカにされるかもしれない。
信用を失うかもしれない。
仕事を失うかもしれない。
何か大切なものを失うかもしれない。

そんなものまで全部、一瞬でつながっていたのかもしれない。

でも、こういう考えって本当に気づきにくい。

あまりにも自動的だから。

「私は今、失敗したら責められると思っている」

なんて、いちいち頭の中で文章になっているわけじゃない。

何かをしようとした瞬間に、

これは大丈夫かな。
間違ってないかな。
もっとちゃんと考えたほうがいいんじゃないか。
誰かに迷惑をかけないかな。
誰かを傷つけないかな。

そんなことが自然に浮かんでくる。

そして私はずっと、それを

「私は慎重だから」
「ちゃんと考えるタイプだから」
「責任感があるから」
「人に迷惑をかけたくないから」

だと思っていた。

もちろん、慎重に考えることは悪いことじゃない。

誰かに迷惑がかからないか考えることも、
誰かを傷つけないようにすることも、
とても大切なことだと思う。

そこには本当の思いやりもある。

だからこそ、わかりづらかった。

怖さって、いつも「怖い」という顔をして現れるわけじゃないんだと思う。

ときには、

「ちゃんとしなきゃ」

「人に迷惑をかけちゃいけない」

「誰かを傷つけないようにしなきゃ」

「もっとよく考えなきゃ」

という、とても善良な顔をして現れる。

まるで“いい人”の仮面をかぶっているみたいに。

だから、自分でもそれが怖さだとは気づかない。

本当に人を大切にしたい気持ちと、

「責められたくない」
「嫌われたくない」
「ちゃんとしていない人だと思われたくない」

という怖さが、きれいに混ざっている。

その二つを、自分でも区別できなくなっていたのかもしれない。

私はずっと、
「誠実に生きよう」としているんだと思っていた。

でもその中にはもしかしたら、

「責められないように生きよう」

としていた部分も、すごくたくさんあったのかもしれない。

そう思ったら、いろんなことがつながった。

みっともなく見られたくない。

かっこ悪いと思われたくない。

必死だと思われたくない。

変な人だと思われたくない。

ちゃんとしている人でいたい。

そうやって、人からどう見られるかを、
自分で思っていた以上に先回りして生きていた。

だから、がむしゃらな自分まで抑えていたのかもしれない。

本当はもっと必死にやってもいい。

何度だって自分の興味があることについて話したっていい。

「また言ってる」と思われてもいい。

スマートじゃなくてもいい。

うまく見せられなくてもいい。

かっこ悪くてもいい。

がむしゃらでもいい。

何かをやって、失敗してもいい。

もちろん、何でも好き勝手にすればいいという話ではない。

間違えたら直せばいい。

誰かを傷つけたなら謝ればいい。

自分に責任があることなら、責任を取ればいい。

でも、そのあと誰かがどう思うかまで、
全部先回りしてコントロールしようとしなくてもいい。

嫌われるかもしれない。

信用を失うかもしれない。

何かを失うかもしれない。

でも、だからといって、
私自身までなくなるわけじゃない。

そして今回、もうひとつ大きく気づいたことがある。

もし私が何か失敗をして、
誰かから責められたとしても、

私まで一緒になって、自分を責めなくていい。

今まで私は、

「私が間違えたんだから、責められて当然」

と、自分まで責める側に回るか、

責められることが苦しすぎて、
怒って必死に跳ね返すか、

そのどちらかだったのかもしれない。

でも、本当はその間にもうひとつある。

「ここは私が間違えた。だから直す」

そして同時に、

「でも、だからといって私をどこまでも責めていいわけじゃない」

と、自分の隣に自分が立つこと。

失敗した自分を置いていかないこと。

誰かに責められたからといって、
自分まで自分を見捨てないこと。

たぶん私がこれから欲しいのは、

失敗しない人生じゃなくて、

失敗しても、自分を見捨てない人生なんだと思う。そして、失敗なんか考えずに挑戦する人生なんだと思う。

やりたいなら、やってみる。

間違えたら、直す。

責任があるなら、取る。

嫌われたら、それはその人の自由。

自分が何かをしたあとの、
他人のリアクションまで先回りして生きなくていい。

もっとがむしゃらでもいい。

もっとみっともなくてもいい。

ちゃんとして見えなくてもいい。

自分の中には、
まだ自分でも気づいていない「自動的な考え」が
きっとたくさんあるんだと思う。

怒られる=私が悪い。
断られる=私には価値がない。
休む=怠けている。
人をがっかりさせる=嫌われる。
間違える=責められる。

本当はイコールじゃないものが、
いつの間にか自分の中ではイコールになっている。

しかもそれが、
「思いやり」
「責任感」
「慎重さ」
「ちゃんとすること」

みたいな、もっともらしい顔をしていることもある。

だから最近、改めて自分にこう問いかけてみたいと思っている。

私の頭の中では、何と何が、いつの間にか「=」で結ばれているんだろう。

そしてそれは、

本当に事実なんだろうか。

それとも、
ずっと長い間そう思ってきたから、
事実みたいに感じているだけなんだろうか。

自動的すぎて見えなかったものに気づいたとき、

そこから初めて、
今までとは違う選択ができるのかもしれない。

失敗しないことよりも、

失敗したときにも、
自分の隣に立っていられる人でいたい。

あなたにはどんな🟰がありますか?

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